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京都地方裁判所 平成9年(ワ)2646号 判決 2000年9月08日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

三重利典

出口治男

右訴訟復代理人弁護士

中田良成

被告

医療法人相馬病院

右代表者理事長

相馬秀臣

被告

乙川太郎

右両名訴訟代理人弁護士

置田文夫

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金八八四〇万七五五九円及びこれに対する平成八年一一月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、各自金二億二八九〇万〇八六四円及びこれに対する平成八年一一月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は、昭和二年九月三日生まれの女性であり、被告医療法人相馬病院(以下「被告法人」という。)は、肩書地において脳神経外科等を有する病院(以下「被告病院」という。)を開設する医療法人であり、被告乙川太郎(以下「被告乙川」という。)は、被告法人に雇われ、被告病院の脳神経外科部長を務める医師である。

2  診療契約の締結

原告は、平成八年八月に健康診断を受けた際、精密検査を勧められ、レントゲン検査の結果、未破裂の左中大脳動脈動脈瘤が見つかったため、同年九月三〇日に被告病院で被告乙川の診察を受け、同年一一月二六日、被告法人との間で、動脈瘤の治療を内容とする診療契約を締結し、被告病院に入院した。

3  手術の経緯

原告は、同月二七日、被告病院で被告乙川の執刀により、左前頭側頭骨形成開頭及び中大脳動脈ネッククリッピング手術(以下「本件手術」という。)を受けた。本件手術は、開頭し、銀製剥離子等の脳ベラにより、周りの脳組織をよけて圧排し、動脈瘤を露出させ、瘤の基部をクリップで挟み、血液の流れを遮断し、破裂を防ぐ方法というものであった。

被告乙川は、同日午後一時に本件手術を開始し、原告の頭皮を左半冠状に切開し、前頭・側頭骨形成開頭を行い、同日午後二時二五分に頭蓋骨を除去し、同四五分硬膜を切開し、前頭を脳ベラで圧排し、手術野を拡げ、脳神経Ⅰ(臭神経)、脳神経Ⅱ(視神経)を確認し、左内頸動脈に沿って血管をたどって、中大脳動脈の三叉部に至り、右三叉部に動脈瘤があることを確認したが、三叉部の癒着は強く、特に動脈瘤のドーム部分と分岐した動脈の一本とが強く癒着していた。被告乙川は、動脈瘤の基部(ネック)を剥離し、同日午後五時三五分、動脈瘤ネッククリッピングを行い、同五五分、硬膜縫合がなされ、硬膜外にドレーンを設置したうえ、同日午後六時二〇分本件手術を終えた。

4  手術後の状態

原告は、同日午後六時二五分に病室に戻ったが、この時点で対光反射は左正常、右鈍であり、瞳孔も右が小さく、麻痺については健側に比べて右上肢が二/五、右下肢が二/五〜三/五しかなく、右半身の麻痺が見られ、翌二八日のCT検査の結果、左中大脳動脈の全支配領域に脳梗塞が生じていることが確認された。

原告の意識レベルは、手術当日の午後九時までは刺激しても覚醒しない状態であり、同日午後一一時に体を揺さぶることにより開眼する状態となったものの、同年一二月一一日ころまで刺激しても覚醒しない状態と体を揺さぶらないと開眼しない状態を行き来した。その後、原告は、意識レベルは改善したものの、右半身は麻痺したままであり、失語症が残存した状態のまま、平成九年三月五日まで被告病院に入院し、同日、京都市リハビリセンターに転院した。

5  原告の後遺障害

原告は、本件手術により左中大脳動脈が遮断され、脳梗塞となり、右片麻痺、失語症が発生し、右上下肢機能障害、視野障害、言語機能障害の後遺障害を負い、その症状は同月二八日に固定した(後遺障害等級一級相当)。

6  被告乙川の過失

(一) 動脈瘤の基部以外の血管をクリップで挟んだことに関する過失

被告乙川は、原告の脳動脈瘤を中大脳動脈から剥離してその基部をクリッピングする際、クリップが動脈瘤の基部のみを正確に挟み、他の健康な血管を挟まないよう注意すべき義務があったのに、これを怠り、クリップが動脈瘤の基部以外の血管を挟んでいないことを十分に確認しないままクリッピングを行った過失により、正常な動脈であるM2下行枝を挟み、その結果、左中大脳動脈を詰まらせた。すなわち、左中大脳動脈水平部(M1)は、M2上行枝とM2下行枝に分かれているが、被告乙川は、動脈瘤の基部にクリップをかける際、M2下行枝が動脈瘤の陰に隠れて見えにくくなっていたため、誤ってM2下行枝をクリップで挟み、しかもクリップ後に、動脈瘤の裏側を確認しなかったため、中大脳動脈を詰まらせたものである。

また、被告乙川は、本件手術の後、クリップが正確に動脈瘤の基部を挟んでいるかどうかを確認するため、脳血管撮影を行うべき注意義務があったのに、これを怠り、脳血管撮影を行わなかった過失により、クリッピングの正確性を確認しなかったため、左中大脳動脈を詰まらせた。

(二) キンクを生じさせたことに関する過失

被告乙川は、本件手術前のCT血管撮影等から、原告の脳動脈瘤とM2上行枝が癒着していることを予測できたのであるから、クリップを掛けた時点でキンクしていないかどうか(ねじれが生じていたかどうか)を顕微鏡で確認し、又はクリップ直後に脳ベラを軽く外しながらどのようにクリップが変形するかを確認した上、キンクが生じたときは血流が正常であることを確認すべき注意義務があったのに、これを怠り、キンクの有無を確認せずに動脈瘤の基部をクリップしたため、M2上行枝にキンク(ねじれ)を生じさせた上、キンクが生じたにもかかわらず、ドップラーによって血流が正常であるかどうかを確認しないまま放置し、その結果、左中大脳動脈を詰まらせた。

7  損害

原告は、次のとおり、合計二億二八九〇万〇八六四円相当の損害を被った。

(一) 逸失利益

一九六八万六七一一円

原告は、旧制中学を卒業し、主婦として家事を行うかたわら、夫の経営する○○株式会社の取締役として経理や金融機関との交渉などを担当し、その他にも所有する駐車場の管理をしていたが、本件手術により極めて重篤な後遺障害を負ったことにより、右就労が全く不能となった。

原告は、本件被害を受けなければ七六歳まで就労可能であり、平成八年賃金センサスにおいて、旧制中学校卒業の産業計・企業規模計・女子労働者の平均年間給与額は三三五万一五〇〇円で、就労可能年数七年の新ホフマン係数は5.874であるから、原告の被った逸失利益は、三三五万一五〇〇円に5.874を乗じた一九六八万六七一一円となる。

(二) 慰謝料 五五〇〇万円

(1) 後遺障害分 五〇〇〇万円

原告は、本件手術前は仕事、趣味など活動的に動き回っていたが、本件手術を原因とする後遺症により、ほとんど一日中をベッドの上で過ごさねばならなくなり、筆舌に尽くしがたい苦痛を被ったので、これに対する慰謝料は五〇〇〇万円を下回るものではない。

(2) 入通院分 五〇〇万円

原告は、被告病院に平成八年一一月二六日から翌年三月五日まで入院し、更に同日から同年一〇月一六日まで京都市身体障害者リハビリテーションセンター付属病院に入院し、現在でも毎週のマッサージ、往診を欠かすことができないのであり、これに対する慰謝料は五〇〇万円を下らない。

(三) 入院付添費

二一四万五〇〇〇円

入院中は家族が原告の付添看護をしており、その費用は一日当たり六五〇〇円で、これに三〇日を乗じた一か月当たりの費用に入院期間一一か月を乗じると、二一四万五〇〇〇円となる。

(四) 将来の介護費用

一億二九五七万五〇〇〇円

原告は、今後他人の介護なくしては生きられない状態であり、現在長女及びその家族と同居して、主に長女による介護を受けており、職業的付添人に任せることができない状態である。そして、長女の付添に要する負担は、原告に二四時間付きっきりで一時たりとも目を離せない状態であって、長女の家族を犠牲にし、想像を絶するほど苦労の多いものであり、このような介護を費用に換算すれば一日二万円を決して下回るものではない。そして、七〇歳時点での平均余命は17.75年であるから、原告の介護費用としては二万円に三六五日を乗じ、これに17.75を乗じた一億二九五七万五〇〇〇円が必要となる。

(五) 住居改造費 一二〇万円

原告が移動するときは車椅子であり、そのため居住マンションの玄関など改造しなければならなかった。これに要した費用は一二〇万円である。

(六) 入院雑費

四九万五〇〇〇円

一日当たり一五〇〇円で、これに三〇日を乗じた一か月当たりの費用に入院期間一一か月を乗じると、四九万五〇〇〇円となる。

(七) 弁護士費用

二〇七九万九一五三円

右損害額を請求する場合の弁護士費用は、京都弁護士会報酬規程によると着手金は右(一)から(六)までの合計二億〇八一〇万一七一一円の三パーセントに六九万円を加えた六九三万三〇五一円、報酬金は右(一)から(六)までの合計額の六パーセントに一三八万円を加えた一三八六万六一〇二円であるから、合わせて二〇七九万九一五三円となる。

8  よって、原告は、被告乙川に対しては民法七〇九条に基づき、被告法人に対しては同法七一五条又は診療契約の債務不履行に基づき、被告らに対し、損害賠償として二億二八九〇万〇八六四円及びこれに対する不法行為の日である平成八年一一月二七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者)の事実は認める。

2  同2(診療契約の締結)のうち、原告が平成八年九月三〇日被告病院で被告乙川の診察を受けたこと、原告が同年一一月二六日被告病院に入院したことは認め、その余の事実は不知。

3  同3(手術の経緯)の事実は認める。

4  同4(手術後の状態)の事実は認める。

5  同5(原告の後遺障害)のうち、原告につき、本件手術により左中大脳動脈が遮断されて脳梗塞となり、右片麻痺、失語症が発生したことは認め、その余は争う。

6  同6(被告乙川の過失)はいずれも争う。

(一) 被告乙川がM2下行枝をクリップで挟んだ事実はない。原告は、本件手術の際、右耳がやや下になるように頭部を回転させた状態で仰向けに横になっていた。そして、被告乙川は、原告の頭頂部側に立って術野を見ていた。したがって、被告乙川は、M2下行枝が水平に走るのを見ており、その外側(左耳側)に動脈瘤が見えたはずであるから、下行枝は動脈瘤の陰に隠れることなく、その基部を含めてよく見えており、M2下行枝を誤ってクリップで挟むことはあり得ない。

また、本件手術後に脳血管撮影をするかどうかは医師の裁量の問題であるから、右撮影をしなかったことが過失となるものではない。なお、被告乙川は、本件手術直後、原告が敗血症により高熱の状態にあったため、脳血管撮影を行えなかった。

(二) 被告乙川が動脈瘤の基部をクリップで挟んだため、M2上行枝にキンクが生じ、左大脳動脈瘤が詰まって脳梗塞が生じたとしても、キンクを一〇〇パーセント予防することは困難であるから、キンクを生じさせたことについて被告乙川に過失があったということはできない。

(三) 原告の脳梗塞は、中大脳動脈の全支配領域に及ぶ広範囲なものであるが、そのような広範囲に広がる脳梗塞が生じる原因としては、脳血管攣縮、脳血栓又は塞栓によるM1基始部の閉塞が考えられる。すなわち、M2の上行枝又は下行枝に閉塞が生じても、通常梗塞が生ずるのはそれより先の部分であり、前側頭動脈やレンズ核線条体動脈にまで閉塞が生ずることはないが、原告の場合、前側頭動脈やレンズ核線条体動脈の閉塞も生じているので、M1基始部が脳血管攣縮、脳血栓又は塞栓により閉塞したというべきである。

7  同7(損害)の事実は争う。

原告は、逸失利益の算定につき、賃金センサスの平均年収を用いているが、夫の経営する株式会社の取締役として報酬を得ていたのであれば、その実額を基準として算定すべきであるし、原告の主張する慰謝料額についても、あまりにも過大であり、認められない。介護費用についても、金額の根拠が希薄であり、過大請求である。

三  抗弁(原告の素因による減額)

被告らに何らかの責任があったとしても、原告自身の身体条件を含む素因を考慮して、被告らの責任範囲は相当な範囲に限定されなければならない。

四  抗弁に対する認否

争う。

理由

一  請求原因1、3、4の事実は当事者間に争いがなく、同2の事実のうち、原告が平成八年九月三〇日被告病院で被告乙川の診察を受けたこと、原告が同年一一月二六日被告病院に入院したことは当事者間に争いがなく、その余は証拠(甲一七、乙五、弁論の全趣旨)によって認められ、同5の事実のうち、原告につき、本件手術により左中大脳動脈が遮断されて脳梗塞となり、右片麻痺、失語症が発生したことは当事者間に争いがなく、その余は証拠(甲一四、一九)によって認められる。

二  請求原因6(被告乙川の過失)について

1  動脈瘤の基部以外の血管をクリップで挟んだことに関する過失について

(一)  原告は、被告乙川が正常な動脈であるM2下行枝をクリップで挟んだ旨主張し、被告らは、そのようなことはあり得ない旨反論しているので、これについて検討するに、証拠(検甲九、乙一、五、七、八、証人板倉徹〔第一、二回〕、被告乙川、鑑定、弁論の全趣旨)によると、次の諸点を指摘することができ、これらを併せ考えると、被告乙川は、本件手術の際、動脈瘤の基部をクリップで挟み、動脈瘤を剥離した後、クリップの先端が他の血管を挟んでいないかどうかを確認すべき注意義務があったのに、これを怠り、動脈瘤を剥離した後、クリップの先端を確認しなかったため、正常な動脈であるM2下行枝をクリップで挟んでいることに気付かず、これを放置した過失があったものといわなければならない(その余の原告の過失主張については判断するまでもない。)。

(1) 一般に、中大脳動脈水平部(M1)は、内頸動脈から分岐した後、M2上行枝とM2下行枝の二本に分かれ、M1のすぐ上にレンズ核線条体動脈の支配領域があり、M2のすぐ上に左中大脳動脈の支配領域があり、また、本件手術の対象となった原告の脳動脈瘤は、M2の上行枝と下行枝が分岐する付近に存在した。

(2) 鑑定人板倉徹(以下「板倉」という。)は、鑑定書において、本件脳梗塞の範囲とその責任血管につき、「本件脳梗塞の範囲は左中大脳動脈支配領域の全域にわたっており、左中大脳動脈水平(M1)部の閉塞によるものと考える。」「左前頭葉、側頭葉の中大脳動脈支配領域のみならず、レンズ核線条体動脈支配領域である基底核にも梗塞がおよんでいるため、M1部の閉塞が原因と考えられる。」と指摘している。

(3) 鑑定人板倉は、鑑定書において、「手術所見、血管撮影から判断して中大脳動脈の一本の枝(M2下行枝)にクリップがかかっている可能性がある。」「本件で術者がクリッピング後、動脈瘤を完全に周囲の脳から剥離し、クリップの先を確認しなかったことは残念である。」と指摘し、更に、「中大脳動脈が閉塞しその近位部に枝がない場合には、……閉塞がM1に及びレンズ核線条体動脈を閉塞させることはありうる」と指摘している。

(4) 更に、鑑定人板倉は、鑑定書において、被告乙川が動脈瘤を剥離した後、裏側を確認しなかったことは適切ではないと述べ、通常の大きさの中大脳動脈では、クリップをかける前に裏側のM2下行枝を観察できないことが多いので、いったんクリップをかけ、動脈瘤が破裂しないようにしておいて動脈瘤の全周を剥離して、裏側でクリップがM2を閉塞させていないかどうかを確認することが重要であると指摘している。

(5) 被告乙川は、陳述書(乙五)において、「動脈瘤ドームは周囲との癒着が強かったので、ドーム全体を周囲脳から剥離し、動脈瘤をひっくり返しクリップの先端を確認はしていない。」「血管撮影からネックの奥にはM2の枝は、無いと考えていた。」と記載し、別の陳述書(乙七)においても、「動脈瘤の奥には、M2の枝は無いと考えていたので動脈瘤を起こしてまで確認していない」と記載しており、動脈瘤を剥離した後、クリップの先端を確認しなかったことを認めていた。

(6) 脳神経外科教育研修用ビデオ<手術シリーズ>の「前交通および中大脳動脈瘤の手術アプローチ」(検甲九)では、中大脳動脈瘤に対するアプローチにつき、クリッピングが正確にできているかを動脈瘤を剥離して確認すべきことが指摘され、動脈瘤のネックにクリップを挟み、動脈瘤のドーム部分を完全に剥離した後、クリップの先端が一部血管に挟まれていたときは、ネッククリッピングをやり直すべきであると解説されている。

(二)  なお、被告らは、本件手術のとき、M2下行枝は動脈瘤の陰に隠れることなく、その基部もよく見えていたので、M2下行枝を誤ってクリップで挟むことはあり得ない旨主張しているので、これについて付言するに、証拠(乙五、七、証人板倉〔第一、二回〕、被告乙川、鑑定)及び弁論の全趣旨にかんがみて検討すると、被告乙川の主張や供述(陳述書の記載を含む。)は、次のとおり、鑑定の内容と合致せず、かつ、不合理な変遷を示しているなど、その信用性は乏しいといわざるを得ないので、右主張は採用することができない。

(1) 被告乙川は、平成一〇年三月二日の本件弁論準備手続期日で提出した陳述書(乙五)には、「動脈瘤ドームは周囲との癒着が強かったので、ドーム全体を周囲脳から剥離し、動脈瘤をひっくり返しクリップの先端を確認はしていない。」「血管撮影からネックの奥にはM2の枝は、無いと考えていた。」と記載し、同年六月一日の本件弁論準備手続期日で提出した陳述書(乙七)には、「動脈瘤の奥には、M2の枝は無いと考えていたので、動脈瘤を起こしてまで確認していない」と記載した。

(2) 鑑定人板倉は、同年七月九日当裁判所から鑑定を命じられ、同年一二月二日鑑定書を提出したが、同鑑定書には、「通常、中大脳動脈瘤の手術では、奥の枝は動脈瘤の陰にかくれて見にくく、動脈瘤を剥離して完全にfreeにしない限り見えないことが多い。」「これ(右(1)のとおり被告乙川が動脈瘤を剥離して奥を確認していないこと)が真実とすると、動脈瘤クリップが中大脳動脈の一本の枝にかかっている可能性がある。」と指摘した。

(3) 鑑定人板倉は、二回にわたって尋問(但し、第二回は書面尋問)を受けたが、平成一一年一一月一一日提出の書面尋問に対する回答書には、「M2下行枝は……、水平に走らず下方へ走るためその起始部は動脈瘤の陰に隠れていたのではないかと思う。」「(本件)手術ではまずM1が見え、動脈瘤、M2上行枝が見えたはずであるが、M2下行枝は水平ではなく下方へ走行するため、動脈瘤の陰で見えにくかったものと考える。被告(乙川)はM2下行枝が水平に走ると考えているようだが、血管撮影、三次元CTを見ればM2下行枝が下方へ向かって走行していることは明らかである。」と記載した。

(4) 被告乙川は、平成一二年二月四日の本人尋問の際、右(1)の各陳述書の記載に訂正するところはないと供述するが、「私は、動脈瘤のネックのところに存在する二本の大きい血管、今のところは上行枝と下行枝ですが、それを確認してクリップをかけておりますし、それから動脈瘤の裏側にM2の枝を二本確認しております」と述べた上、「下行枝が水平に走っているのは、よく見えたと言うんですか。」との質問に「はい、見えているわけです。」と答えた。

(5) なお、被告乙川は、本人尋問の際、鑑定人とは手術の方法が違うかも知れないし、また同じ手術の方法でも視野の方向が違うと思うと供述したが、鑑定人板倉の右(3)の回答書には、「血管撮影の図から考えて手術中M2下行枝は水平ではなく下方へ向かって走っているのが見えたはずである。」「中脳動脈瘤に対する手術は現在ほぼ確立された手術方法で、どの術者も術者の位置、患者の位置はほとんど同じである。」と記載されていることなどにかんがみると、被告乙川の右供述部分の信頼性は低いといわなければならない。

2  キンクを生じさせたことに関する過失について

原告は、被告乙川がM2上行枝にキンクを生じさせたまま放置した旨主張し、被告らは、キンクは避けられない旨反論しているので、これについて検討するに、証拠(乙五、七、証人板倉徹〔第一、二回〕、被告乙川、鑑定)及び弁論の全趣旨によると、次の諸点を指摘することができ、これらと右1(一)で指摘した諸点を併せ考えると、被告乙川は、本件手術の際、M2が動脈瘤に強く癒着し、クリップのためM2上行枝がキンクする可能性が高かったのであるから、クリップを掛けたときにキンクしていないかどうかを顕微鏡下で確認するだけでなく、脳ベラを軽く外して動かないかどうかを確認し、更に、超音波で血流を確認すべき注意義務があったのに、右のような確認をしなかった過失があるといわなければならない。

(一)  鑑定人板倉は、M2下行枝がクリップで閉塞しただけで中大脳動脈全域の脳梗塞は発生しないので、M2上行枝も閉塞した可能性がある、すなわち、M2が動脈瘤に強く癒着していたので、M2上行枝と動脈瘤の間に十分なスペースができず、クリップのためM2上行枝がキンクし、M2下行枝だけでなくM2上行枝も閉塞したため、中大脳動脈の血流が行き場を失い、閉塞が中大脳動脈水平部(M1)に及び、レンズ核線条体動脈を閉塞させたと考えられると述べている。

(二)  鑑定人板倉は、本件手術と同様の手術を行う際、手術で使用した脳ベラを外すと、血管やクリップ等の位置関係が変化し、キンクが生じることがあるので、これを予防するため、クリップを掛けたときにキンクしていないかどうかを顕微鏡下で確認する外、脳ベラを軽く外して動かないかどうかを確認し、更に、超音波で血流を確認しているが、このような方法は極めて一般的なものであると説明している。

(三)  被告乙川は、「動脈瘤ネックにクリップするときは、脳を脳ベラで圧排している状態で行い、手術終了後は脳ベラを外すと脳の位置が自然の位置に戻りその際クリップの立体的位置関係が変わる、その為に脳、クリップ、血管の位置関係が変わる、その状態は……避けようのない事である。」と述べ、更に術中にキンクが生じたときはクリップをかけ直すと述べているが、脳ベラを軽く外して動かないかどうかを確認したり、超音波で血流を確認したりしたとは述べていない。

3  脳血管攣縮、脳血栓又は脳塞栓によるM1基始部の閉塞について

被告らは、原告の脳梗塞の原因として脳血管攣縮、脳血栓又は脳塞栓によるM1基始部の閉塞が考えられると主張しているが、証拠(証人板倉〔第一回〕、鑑定)をみると、鑑定人板倉は、原告の脳梗塞につき、M2下行枝がクリップで挟まれて閉塞したことと、M2上行枝がキンクによって閉塞したこととが相俟って、中大脳動脈の血流が行き場を失い、閉塞が中大脳動脈水平部(M1)に及んだことによって発生したものであると説明し、更に、「本脳梗塞は術直後に発生し、しかも中大脳動脈領域に限られていることから手術による脳動脈の閉塞が最も考えられる。」「術直後に脳塞栓が発生し中大脳動脈起始部を閉塞させ脳梗塞を発生したことも完全に否定はできないが確率は極めて低い。」「脳動脈瘤手術では術中、程度の差はあれ機械的血管攣縮は発生している。しかし、この機械的攣縮が術後M1の様な太い動脈を閉塞させ脳梗塞の原因になることはほとんどない。」と述べており、他に原告の脳梗塞の原因として脳血管攣縮、脳血栓又は脳塞栓を窺わせる証拠はないというべきである。

したがって、被告らの右主張を採用することはできない。

三  請求原因7(損害)について

原告は、右二で認定した事実及び証拠(甲六、一四、一七ないし一九、二四、二五、証人中川益男、弁論の全趣旨)を総合すれば、次のとおり、合計八八四〇万七五五九円相当の損害を被ったと認めることができる。

1  逸失利益

一七九八万六三五九円

原告は、症状固定時六九歳の女子であり、旧制中学を卒業し、本件手術前には、家事を行うと共に、夫の経営する会社の取締役として働いていたが、本件手術による後遺障害のため労働能力のすべてを喪失したと認められる(甲一四、一七、一八、一九、証人中川益男)。そこで、平成九年賃金センサス第一巻第一表産業計・企業規模計・旧制中学卒の六五歳以上の女子労働者の平均年間給与額三一〇万八六〇〇円を基礎とし、原告の就労可能年数をその主張のとおり七年として、その中間利息の控除につきライプニッツ係数5.786を用いて逸失利益の症状固定時の現価を算出すると、右金額となる(円未満切捨て)。

2  慰謝料 二七二五万円

(一)  後遺障害分 二六〇〇万円

本件手術による原告の後遺障害の内容・程度等の諸事情を考慮すると、右後遺障害によって原告が被った精神的苦痛を慰謝するためには、右金額が相当である。

(二)  入通院分 一二五万円

被告乙川の過失の態様、原告の受傷内容、症状固定時までの入院期間等の諸事情を考慮すると、右過失による受傷のため原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、右金額が相当である。

3  入院付添費

六七万六五〇〇円

原告の症状の内容、程度、年齢等にかんがみると、入院中の一二三日間(平成八年一一月二六日から平成九年三月二八日まで)は少なくとも家族が原告の付添看護をする必要があったと認められるから、右期間の入院付添費は一日当たり五五〇〇円と認めるのが相当である。

4  将来の介護費用

三四一三万四八〇〇円

原告の後遺障害の内容・程度等にかんがみると、原告は、症状固定後も、二四時間にわたって随時介護を行うことができる付添が必要であるから、自宅での家族による介護を前提とした介護費用をもって、原告の被った損害とみるべきである。そして、原告は、症状固定時六九歳の女子であり、その平均余命は一八年であり、また、その介護費用は一日当たり八〇〇〇円(一年で二九二万円)とみるのが相当であるから、中間利息の控除につき、右平均余命に対するタイプニッツ係数11.690を用いて原告の介護費用の症状固定時における現価を算出すると、右金額となる。

5  住居改造費 一二〇万円

原告の後遺障害の内容・程度等に照らし、原告が家族の介護のもとに自宅内を移動するためには車椅子が不可欠であり、車椅子での生活ができるように自宅を改造するための工事費として右金額が必要であったと認めることができる(甲二四、二五)。

6  入院雑費 一五万九九〇〇円

一日当たり一三〇〇円が相当であり、原告の症状固定時までの入院日数である一二三日分は右金額となる。

7  弁護士費用 七〇〇万円

原告は、本件訴訟の追行を弁護士に委任したのであるが、立証活動の難易、認容額その他の諸事情を考慮すると、弁護士費用としては右金額が相当である。

四  抗弁(原告の素因による減額)について

被告らは、原告自身の身体条件を含む素因を考慮して、被告らの責任範囲を限定すべきと主張するが、原告固有の疾患により原告の損害が拡大したことを認めるに足りる証拠はないから、被告らの右主張は採用できない。

五  結論

以上によれば、原告の被告らに対する請求(被告乙川に対しては民法七〇九条、被告法人に対しては同法七一五条に各基づく)は、八八四〇万七五五九円及びこれに対する不法行為時である平成八年一一月二七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容(不真正連帯)し、その余は理由がないから棄却することとする。

(裁判長裁判官・松本信弘、裁判官・河田充規、裁判官・向井邦生)

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